「泣きながら笑う日」に想う

公益社団法人 岡山県難聴者協会 会長  森 俊己

 この度、聴覚障害者センターの協力を得て、「泣きながら笑う日」を上映することになりました。この映画は、昭和60年(1985年)に岡山県で初めて字幕を付けて上映した邦画です。感慨を新たにしています。
 当時、各地の難聴青年が「私たちも邦画を楽しみたい」と、自ら字幕を作成し、要約筆記で使っていたOHP(オーバーヘッドプロジェクター)を用いて映画の横に映し出す形で字幕付き上映をしました。その先鞭をつけたのは、名古屋の青年部だったでしょうか。少しずつ各地に広がり、岡山青年部でもという話になり、最初の上映作品として選んだのが「泣きながら笑う日」でした。広島の難聴青年部が作った字幕作成マニュアルのようなものを、何度も読み返しつつ作業したのを思い出します。
 パソコンも、DVDなどというものもなく、16ミリフィルムの映画を図書館から借りました。映写機を操作するのに必要な免許も取り、試写をして、まずはセリフの書き起こし。聞き取りは要約筆記の人たちが頑張ってくれました。これをもとに、青年部がロールに書き写して字幕ロール完成。映画の音声に合わせ、字幕を2行ずつ送って映画の横に映し出すというアナログな方法です。資金はカンパで募り、聞き取り作業などできないところは支援を求め、自分たちでできることは自分たちで手足を使い、無い知恵を絞って動きました。
 上映は12月1日。当時、西古松にあった視聴覚障害者センターの一室で、椅子や机を取り払い、ブルーシートを敷いて、肩と肩がふれあう超過密状態で100人を入れて3交代。総視聴者数300名をみた記憶は鮮明です。裏返せば、みんながそこまで「飢えていた」ということでしょう。この後も岡山青年部では、「典子は今」「植村直巳物語」「二十四の瞳(田中裕子版)」「黒い雨」等々、映画館と交渉して上映中の映画に字幕を付ける活動を展開しました。すべて手作りの字幕です。 
 全国に広がった難聴青年たちの草の根の活動が、全難聴を通じて国や放送局を動かしました。無名の人たちが積み上げてきた活動が法律の改正につながり、今や地上波のテレビ番組には、ほとんど字幕が付きます。ⅭMにも、生放送にも、クローズドキャプションで字幕が付けられています。経緯など何も知らない高齢で軽度難聴の実姉が、TVの前で「字幕が便利」とつぶやきます。その運動に関わった人たちにとって、何よりの勲章だと思います。平成30年(2018年)10月25日、国会中継に初めて字幕が付きました。
 生放送の字幕は映像と遅れる、地域に密着した地方局作成の番組に字幕が付かないなど、私たちがおいてけぼりになっている感が否めません。はじめの一歩を忘れずに、課題を解決していく努力を重ねたいものです。